瓜条どっとこむ

生きづらい今だからこそ かけがえのない瞬間の為に

歪んだ「反知性主義」

ポストトゥルース

 

という言葉がある。2016年のイギリスのEU離脱投票やトランプ大統領誕生の頃によく聞いた言葉だが、意外とこの意味をちゃんと理解してる人間は少ない。まぁ別に知らんでも生きていけるけど。ようするに・・・

 

こまけぇこたぁいいんだよ

 

・・・という態度を多数派がとっている状況を示すものだ。そこにはエビデンスもクソもなく、「おれの思う、ありのままがおれなんだよ!」的な居直りしかない。もちろん、生命の危機が危ういガチの場面によっては居直らんといかん局面ってのは確かにあるが、ブレグジットやトランプ旋風のような場合は入口からすでに居直っている。

 

日本においても、イデオロギーレベルですらポストトゥルース的な状況は顕著で、従来は保守勢力であるはずの右派アメリカ追従、憲法改正、「経済特区を作ってイノベーションを起こせ」、「オリンピックを成功させろ」のようなイケイケのオラつきスタイルを標榜している。

 

逆に革新主義・科学主義であるはずの左派はその中でも極左であるはずの共産党が「憲法を守れ!」とか言ってるし、「経済特区なんかけしからん!」とテクノロジーの推進にも反対する始末。20世紀の立ち位置が21世紀においては右左であべこべなのである。ただ、実はこのあべこべは歴史的には60年代~70年代の歴史を見ると予兆が見えている。

 

旧ソ連が共産圏で標榜した革新主義や科学主義というものはアメリカとの進歩競争ですでに疲弊していてそれがいわゆるプラハの春 - Wikipediaのような変革運動に繋がった。そういう変革運動で立ち上がった学生が新左翼 - Wikipediaと呼ばれる学生を中心とした連中だったのである。ただ、いかんせん権力者へのルサンチマンが先行していて、改革運動に酔っている学生がきちんと勉強をしていたとは言えず、ベトナム戦争キューバ危機など資本主義勢力の衰退と終焉も現実味を帯びていた時代背景もあって「これからは自然と共生するエコロジーだ」という価値観が台頭し、同時にヒッピー的なサブカルチャーも生まれた。

 

そういう事から新左翼は音楽文化とも親和性が高く、ジョンレノンとオノヨーコが『イマジン』をバイブルにやっていた平和的芸術寸劇もその流れのものだった。しかし、ソ連が崩壊し冷戦が終わると「共産主義か」「反共産主義か」という旧来の左右対立は解ける事になるんだが、20世紀の左右対立に基づいて作られた政党がそのままなのに党の方がその変化についていってないのが21世紀の政局における倒錯を生んでいる。つまるところ、今の左翼は新左翼の流れで生まれた左翼であって進歩主義も科学主義もない。つまり、現在における対立構造を「右か左か」のような横軸だけで考えると本質を見誤る。

 

左派的な「税金の再分配」と右派的な「成長重視の為に投資する」の対立する横軸に加え、上下に「グローバルに世界に打って出るか」と「ローカル重視で国内生産力を上げるか」という軸も伸びている。今の政治はその4つの象限の1個のブロックを取ったところで政権は取れないゆえに、半ば嘘やハッタリでも使えるもんは使って愚民の感性に訴えるような文句が重視される

 

そこで反知性主義的な連中を如何にコントロールするかが為政者側にとっての情報統制の腕の見せ所だ。ちなみに反知性主義ってのは「知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる」って定義が前提の話。今の右派の潮流は「いかにバカになるか」という事を戦略的にとって知性を否定してきたが、今の左翼は知的権威もエリート権威も否定している介護老人のようなメンタリティなんで権力者側からすれば騙すのは左翼の方がチョロいだろう。

 

実際に左翼は反原発に弱いからそれさえ言ってれば山本太郎は当選できたし、逆にネトウヨ愛国主義に弱いからそれだけ喧伝してりゃどんなにバカ大臣が不祥事こいても安倍政権は安泰なのである。小選挙区制によって投票の選択の自由が制限された最大の弊害はこの圧倒的な衆愚政治の醸成だろう。

 

ともかく・・・

 

2016年以降のポストトゥルース的な動きを世界的に見ると明らかに右派側の連帯が強まってる。 最近じゃこんなニュースも。

 

 

「ブラジルのトランプ」、大統領選で首位 - Sputnik 日本

 

左翼陣営の強みだった労働者の団結は、インターナショナルな連帯を生みやすいはずなんだが、日本の左翼の場合はアホすぎて世界の左翼と連帯できてないばかりか、ますますガラパゴスな幼稚化が促進している。つまり、テンプレ的に「アベガー」だの「9条反対」だの「辺野古ジュゴンがー」だのとドメスティックに反対運動をやってる事が「僕たち戦ってます!」という満足感を生んでおり、もはや「左翼運動の保守化」とも言うべき倒錯である。正直なところ「左翼的スタンスのキープ」をすることで己の既得権を保守したいという何らかのスケベ因子があんじゃねえか?と勘繰ってしまう。実際に大阪ではそういう「組合文化」が根強く明らかな既得権益が蔓延していてカネを浪費しまくっていたところに橋本徹が現れ、既得権益に巣食うダニを各個撃破して税金に浸かっていた老害に嫌気のさしていた人々の支持を集めることができたのだ。

 

思うに、ポストトゥルース的な動きを支えているのは、いわゆる急進的な右派というよりは歪んだカタチの「反・知性主義」に陥った人間達ではなかろうか。

 

そういう「反・知性主義」は彼らにすれば、学校やメディアが繰り返しい吹聴してきた「知的な平等論」や「保障政策」「国際的協調主義」という小賢しさに対する深い幻滅がある。これはおれ自身も20代はそうだったから物凄く共感できる部分ではある。そういうラディカルな政治思想ってのは感情面において、てめえの尊厳を回復させうるような高揚感を生みがちなのだ。つまり、人種差別や保護貿易についての建前論よりも心情的な自分の尊厳の保持ということが重要になってしまうのである。弱い存在ゆえの哀れさであろう。

 

残念な事に左派カーストの上位には知識レベルがかなり高い層も多いが、そういう層ほど「弱いが故に自分より弱い者を叩く人間」への理解と「寄り添う気持ち」が欠けている。むしろエラソーに説教をこいたり、糞味噌に批判をするもんだから、それ自体を左派インテリからの差別と捉える人間も多いのだ。それじゃあ永遠に平行線である。お互いに「立ち止まってちょっと考えてみる」ような想像力が欠如しており、彼らの乗る最終列車の行きつく先にあるのは無秩序と混沌しかない。

 

先の見えん不安を考えるのはいと難しいし嫌になるものだ。だが「考えて、問題解決の為に行動して、壁にあたって、また考えて・・・」という悠長なプロセスは人間にしかできん生物的な特権なのである。

 

ゆえに考える事を止めるのは人生を降りる事に等しい。