瓜条どっとこむ

生きづらい今だからこそ かけがえのない瞬間の為に

帆の切れた船 ~彷徨える黄金の国~

ポトラッチ - Wikipedia

 

とか、

 

カーゴ・カルト - Wikipedia

 

というものをご存じだろうか?

民俗学とか人類学の範疇らしいが人間を考える上で結構面白いのでヒマがあれば一読を勧める。というのも、自分は今の日本社会を考える時にこういう前近代的な無駄遣い感覚を連想してしまう。

 

ところで、青年会議所に所属してるうちの会社の若手が「民主主義に関する何か」をディスカッションするみたいなわけのわからん話をしてきたんでそのへんの説明を試みた。

 

おれの生きる世界でおれが見えてる民主主義における市民の特徴は「他人任せで文句を垂れる」、「てめえで引き受けて考える事が無い」、「ダイバシティとか言ってるわりに個人性は皆無」「任される側も合理性や知識を尊重するようなコミュにケーションをせずにひたすら空気に縛られる」みたいなボロカスの印象しかない(←超他人事w)

 

他のアジア諸国でもユダヤ教やキリスト文化圏の個人性や哲学を獲得・共有をしてはいないと思う。むしろ血縁以外は信用してなかったり、独裁国家だって存在する。しかし、近代民主主義の観点がなくても「おれの民は血の一滴までおれのもんじゃ」という土着系のエリートが矢面に立つ気概はある。そこに日本と大きな違いを感じる。

 

日本にはそういう人物がいないのはアメリカのケツを舐めるヘタレ政治家に始まり、身の回りで見かけるエラソーなだけのしょっぱい経営者や、下請けをいじめて限界まで買いたたくクソメーカーから、それらに連なるゴマすり系の管理職、そして学校レベルでのいじめっ子まで、正直まともな奴を見つける方が難しいとすら思えてしまう現実からもわかる事である。自分的には少なくとも10代~20代の頃は尊敬できる大人なんか映画とか漫画の世界にしかおらなんだ。

 

今現在、自分が住んでる島国に対して10年以上抱いてる感覚として「近代化に失敗したボケ老人国家」というものがある。それは歴史、特に近代以降の戦争の歴史を学ぶほどに明確になってしまう。別に近代化がエラいとか思ってるわけではないが、例えば水も食料も武器も与えず軍事ロマンチシズムのみで暴走したレイテ戦では大半が餓死に追い込まれ、インパールにしても似たようなもんだ。かつての大日本帝国軍にはロジスティクス(物流兵站のイロハ)という概念が欠如しているという致命的な弱点があったのである。

 

さんざん無茶して国土を焦土にした挙句、敗戦後の極東裁判で陸軍参謀本部が弁明したのは「自分には権限がない」とか「いまさらととまれない」とか「そういう空気やった」とかいう自己弁護のオンパレードであり、現代のやらかした大人の弁明の色んな場面がデジャヴされる。そこには「今更やめられない」というある種アタマのネジが飛んだ継続性しか存在しておらず、その結果大きな震災や敗戦のような起きると今度はポトラッチ的な寄付からボランティア的な連中が大挙してくる。それ自体がバカの一つ覚えのように繰り返されるのである。2011年の東日本大震災後に「これでをきっかけに日本は新しく変わるだろう」的な事を言ってた人間は多かったが何か変わったか?正直、なんも変わってねえだろ。結局、歴史の針がゼロに戻され、自然災害が起きた事自体が遠い過去のものに風化されるのである。ハレ・ケ・ケガレとはよくいったものだ。

 

昨今の政治状況として、相変わらずの安倍政権の盤石ぶりで世の中が見えてない愚民がそれを支えているとも言えるのだが、よくわかんねえけど長い事トップ張ってるから問題なくね的な感覚がほとんどだろう。愚民の鑑で結構。無責任こそ愚民の誉である。もっとも安倍政権は欧米リベラル的な普通の分配政策をやってるだけなんだが、そんな最低ラインの実績も残せず自滅した旧民主党をはじめとする野党連中がクズの集まりなのはわかりきった話なんで今更論ずるほどのものはない。手の打ちようのない野党は憲法改正においてのアンチテーゼが与党への攻撃手段の中心になるんだろうが憲法なんぞ庶民には正直どうでもいい話である。

 

だいたい憲法改正つっても、「何条はOKやけど何条がダメ」みたいなエビデンスに基づいた改正ではなく改正の為の改正であり「全体をパッケージ化した何か」に対し国民はイエスorノーを言えと押し付けられるだけである。ここで言うイエスは不完全なイエスでありノーは不完全なノーにもかかわらず全体意思の一つとしてカウントされるわけである。一部のノータリン系左翼のおかげで「9条があるから戦争が起こってない」みたいな毒電波憲法論の本道のように語られがちだが、外人にすりゃ9条なんぞどうでもいい話。ただ自衛隊の明記はした方がいいのは論理的に自明だろう。明確な武力である自衛隊を戦力を有さない体にするとかいう解釈・言葉遊び文言は字面だけ見れば詐欺にしか捉えられんのは当たり前である。

 

とろこで、ここに左翼がよく引き合いに出す「あたらしい憲法のはなし」という戦後すぐに配布された中学用のテキストがある。文部省 あたらしい憲法のはなし 曰く、

 

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おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。

 

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・・・らしい。

 

古い文献とは言えやはり日本人は近代化にほど遠いと確信に至った次第である。

組織に関わりを持って社会生活をした人間ならわかると思うが、はっきし言ってみんなで決めた事なんかほとんど間違うというのが正しい認識である。チャーチルが「民主主義は最悪の精度である」と言ったのはそういう真理に起因している。専制政治下おいては、優秀な権力者が優秀なリーダーシップでバキバキに何でも的確にキメてくれりゃ最高だが「何をもって優秀か」という合意は実は容易じゃない。ゆえに「しゃあなしに民主制というものを採用してますねん」・・・というのが普通の民主主義の理解だろう。で、みんなで決めるにあたって、みんなの中のアホの比率が多すぎるとアウトプット的に非常に困る可能性が高いんで、アウトプットの結果が困らん程度にアホを減らすプロセスが必要になる。それには参加して自分で関わるしかないのだ。ひとことで言えば責任を負うという事である。

 

そもそも国会議員からし憲法と法律の違いがわかっとらんタコが跋扈しとるから言わせてもらうが、法律は市民に対するもの、憲法統治権力に対するものという大きな違いがある。

 

例えば、憲法に男女平等と書いてあるとして、「ある市民Aが男女差別者だったとしてそれは憲法違反になるか?」というと、その問い自体に何の意味も無いのである。なぜなら憲法は市民への命令文ではないからだ。憲法に関する条文は「市民がどう思うか?」という意思は関係ないのである。それこそルソー的に言うところのみんなの意思の集約(一般意思)とは関係ない。憲法のキモは「この社会はこういう理由でできたわけでそれを如何に持続できるか?」という記憶と立憲の意思によるものである。逆に言えば歴史の記憶と立憲意思がない連中に憲法など不要だしそもそも存在しないのである。

 

本質として存在しないもんを改正だのなんだのと騒いだところでシラケるのは自明。そんなもんに一般人に対する訴求力があるわけがない。ゆえに自民党なり立憲民主党なりがいくら熱く演説をしたところでまるで説得力を感じないのだ。そもそも改憲派の枝野が護憲派共産党と共闘してるような倒錯がある時点で毒饅頭食ってる感がハンパないでしょ。

 

コンセンサス的な話に繋げて原発問題も考えると、福島原発事故の本質は技術の社会制御の瑕疵、つまり「何をしたらどうなるか?」という科学的な知と「人間が何をどうしようとするのか」の社会哲学との齟齬である。日本が原発を止められないのは、ヨーロッパともアメリカと同じような技術知をもってないからとかいう問題じゃなく、日本で原発に関わる行政内の出鱈目が流通しているからである。その最たるものが「原発絶対安全神話」という与太話である。「絶対」の安売りは小学生の常套句でそれを大人がやっている。そしてもう一つは日本にしか存在しない「核燃料サイクルが回る」という謎の前提であろう。

 

その結果、中間貯蔵施設の使用済み核燃料が資産として計上されていたものが「海外のように最終処分をしまーす」と決めた途端に負債計上に変わり、電力会社は阿鼻叫喚である。そういう前提となる現実認識すらなく「原発が安い」などとほざくクズ御用学者の恥の無さは恐れ入る。原発技術自体の問題より技術の社会的制御の側の問題の方が遥かに根は深いのだ。原発そのものは言わば「超でかい湯沸かし器」なんで技術的には枯れているものだ。だが、その技術的な枯れ具合ゆえに「技術的に絶対安全だ」という部分のみが先走った結果「日本でも採用しよう!」である・・・トップがこんな了見では社会制御なんぞ議論にすらならんのは当然である。

 

※ちなみに自分の私的な意見として記すと、原発の技術自体は日本の電力インフラを賄う手段的に有用と思う。だが、社会的制御が効かない状態において無条件に原発を推進する行為は非常に危険と思ってる。もっと簡単に言えば、原発行政に限らず、てめえの責任感が著しく欠如した幼稚な日本人が多数派のような状態じゃ原発は過ぎたシロモノかもしれんとも思ってる。

 

ゆえに庶民に求められるのは行政への積極参加と自治なのである。参加意識と自治意識が分厚い中間層が機能している共同体においてしか憲法のような紙切れは機能しないのである。それと同じで、参加と自治で保たれる中間層が存在しないとこじゃ技術の社会制御なんぞできない。超ラディカルに言えば東京の電気を食らって東京の電気の下でフリーターやっとる程度の奴に原発問題を語る資格なんかない。大人しく奴隷として生きとれば良し。

 

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話はやや飛ぶが、太平洋戦争で日本軍が暴走した背景には政治的な無関心層、特に付和雷同者が多くいる層こそに因子が隠れている。この付和雷同型という奴が政治も歴史も社会も勉強せえへんので、とうぜん基本的なゲーム理論や数字にも弱いが付和雷同気質なゆえに数は多数派になりがちなのだ。そこから「鬼畜米英なんぞやっちまえ!」的な空気感が醸成されその迫力にブルって軍部のエリートが「お、おっしゃ!やったらぁ!どうなってもしらんぞ!」とばかりに暴走したと…主張する人間もいる。その意見には一理あると自分は考える。

 

だって今だってそうじゃないか。ネットなんかでは愚にもつかんような匿名のカスがアスリートやミュージシャンのような逸脱した才能に対して無責任な期待と偉そーに批評をする末端ファシストとしてあちこちに潜伏している。そういう人間は決まって孤独で知への好奇心が終わった幼稚化した老人がほとんどである。こんな連中を対象に民主政治なんぞやるとそりゃ衆愚政治にもなるっちゅうねん。

 

今や「自立=孤独の強要」なのである。自立とはあくまで共同体の中で承認を得て自ら生計を賄える状態でなければいけない。そういう中間層こそが民主主義の担い手として、民主主義の骨格を成形していくのである。昭和の「会社」がそれに近い存在ではあったが、今やそういうものは徹底的に破壊されてしまいとっくに過去のものになってしまった。しかし、それでも与えられたカードを使ってどうにかするしかないのである。そこで重要なのはやはり高等な教育を受けたエリート的存在になるわけだが、そこで、先の大戦の話に戻すと、戦時中の日本軍の数々の作戦は兵站ロジスティクス概念皆無の元に立案された、いわばエリートのオナニーであった。自分の祖父も参加したインパール作戦なんかでも武器弾薬はおろか水や食料の補給計画すら杜撰だったのである。

 

そして極東裁判においてもエリート連中は作戦の失敗を権原問題(=その行為をすることを正当化する法律上の原因)と主張するのである。前述したように、「自分には権限がなかったんや」「いまさら止まれへんのや」「そういう空気やったんや」・・・こんな連中に幾万の兵隊は殺されたのである。こいつらは旧帝大陸軍士官学校出の超エリートのはずだが責任不在状態で謎の暴走をするというのは日本的な狂気の典型なのである。

 

海軍軍令部も陸軍参謀部も分析専門の部署と作戦立案の部署は当然ある。無論、順序として現状分析を明確にやった後に作戦立案となるのが本筋であるのだが、ヒエラルキー的には作戦立案の部署の方が上だった。なぜなら権益を動かせるからだ。具体的には武器弾薬の一個一個に至る規格が陸軍と海軍では違ったのである。それは各々が別の権益と癒着していたからに他ならない。

 

さて、再び現代に戻り今の政治の現場の話。

 

現状分析の部署が分析結果を報告する。政策決定の部署は何をするか?現状分析をシカトして権益にのみフォーカスし計画を立てる。さらに政策決定側は現状分析側を「しょせん雑魚」と見下してるんで、現状分析も勝手に上書きするのである。件の森友学園問題などは財務省というエリートがそれをやらかした典型であろう。

 

治安問題を外国と相対的に考えれば日本は安心安全便利快適なのは間違いないだろう。しかしOECDの調査データでも心理的な幸福度データ的に日本はダントツのドベである。個人GDPも高くて安心安全便利快適の日本のはずが世界中のどこよりも個人が不幸であり孤独なのはどういう事か。これは中間層もエリートもいないのが今の日本であり普通に考えても「詰んでる」という事を見透かされてる客観的な見られ方ではないか?。「詰んでる」というのは未来がないと同義である。

 

いかかがだろうか。孤独死や無縁死や所在不明高齢者がいるかと思えば虐待や放置は野ざらし、そして2017年の調査において日本の15歳~39歳の死因の第1位が自殺という切腹大国の名残り。さらに言えば事故死よりも自殺が多い国は日本だけである。こういうものを見て見ぬふりをする美しい国が日本である。

 

こんな有様で個人が民主主義を支える安定した主体である存在になりえると思いますか?自分ははありえないと思う。逆に言えば個人を支える中間の集団、例えば戦後の昭和の高度成長の時代は中間集団の代表が「会社」だったように、それに類する新しい形での中間集団の再生がなければ民主主義なんてものは成り立たないし、同時に孤独な人間だけ培養され続けゆっくりと衰退していくのみだ。すがれるのはもはや宗教だけであり、その信仰の強さだけが正義というシンプルで野蛮な世界になるだろう。言うまでもないが宗教は人が作ったとバレた瞬間に宗教ではなくなる。居直った野蛮人が強要する信仰はただの暴力である。