瓜条どっとこむ

生きづらい今だからこそ かけがえのない瞬間の為に

介護殺人者の心理

我が家にもかつて親父とされていた介護老人がいる。「老人」と言ってもまだ60代中盤で今の時代では全然動ける人間の方が多い世代である。

 

大都会久留米でアイルランド風パブを経営する我が家は90年代はそこそこ繁盛していた。だが、00年以降は世間的な不景気の煽りで店の経営状態も下降を辿り、かつて親父だった男は15年前に鬱病を発症した。それ以来、元来あったアルコールへの自己節制のできなさと、湯水のように処方された向精神薬により立派なヤク漬けになり、生業ゆえの酒の誘惑に抗えず、酒と上手く付き合えないままに酩酊状態でいくつもの事故を起こし、道端でぶっ倒れ、売り上げの入った財布を紛失したりと、荒唐無稽な行動で周囲に迷惑をかけ経済的負担を家族に強い、現在はわがまま痴呆老人のステージに立つことに成功したわけである。ボケ老人と言っても酒のある場所の認識や家族の目を盗んで酒を隠れて飲む小賢しさは残っており、完全な痴呆とも言い難く、ゆえに地域包括センターのソーシャルワーカーに相談しても現状じゃかろうじて健常者の範疇だからもっとトチ狂ってから来てねという事実上の門前払いを食らう。まぁ一言で言って

 

ボケるなら徹底的にボケてくれた方が公的支援を受けやすいって話。

 

我が家のジジイはかつてはそういう弱者への公的支援的な精度をどこかコケにしていたが、いざ自分がそうなるとまぁガバガバである。そこらの家庭の介護老人よりもカネはかかってるだろう。まったくもってタチの悪さと言う意味においては間違いなく世界ランカーと思う。ぶっちゃけ何度も殺すチャンスをうかがったが幸いまだ完全犯罪的な方法を見出せないでいる。

 

むしろ、ある時期から世の中の介護殺人が起こるメカニズムは身をもって実感しているんでだんだんそこに関する哲学めいた思考が湧いてくるのである。つっても、これを書いてる今ですら合法的に殺す方法完全犯罪的に完結する事故死の見せ方とかを普通に考えている自分がいるんだが。

 

10年以上クソと小便とゲロの世話をしている挙句、鬱陶しい医療費から誤爆事故の損害賠償から我々介護側はオンタイムでカネをドブに捨てさせられているのである。現時点のおれとおふくろには多少は稼ぐ能力があったんで建前でムカつきや殺意を糊塗できているが、経済力の著しく低い家庭だとこの手の老害が始末されるのはやむなしだ。日本に楢山節考のおりんのような婆さんはまぁ存在せんだろう。

 

 

 

 

www.nippon.com

この記事はなかなか秀逸な分析と思う。

 

ー以下抜粋ー

介護疲れに関しては、介護者が追い詰められていく状況にどこかで歯止めを掛けなければならない。介護サービスの充実は必須の課題である。認知症の症状や、被介護者から目が離せない状況は介護者を疲弊させる。特別養護老人ホームに入所申し込みをしたが待機を迫られるなど、使いたい時に介護サービスを使えない状況は早急に改善されねばならない。介護者に過度な負担を押し付けると、結果として破綻を招くことになる。その他、介護者も体調不良、あるいは被介護者との関係が良くないなど、客観的に見て介護者に介護を担う力量や志が不足している場合には第三者による介入が不可欠である。

ー抜粋終ー

 

>客観的に見て介護者に介護を担う力量や志が不足している場合には第三者による介入が不可欠である

 

・・・ここの部分が介護殺人におけるもっとも注目されるべき点であると実感している。結局世の中の介護者に対するここの部分でのリソースが圧倒的に足りていないのだ。

しかし、哀しいかなそういう第三者も様々な人間模様を見ているんでいちいち感情移入していたら彼らの精神にも害が出るというのはよくわかる。わかった上であえて言うがはっきし言って介護してる側の話なんぞちゃんと聞かねえんだよな。おれの場合だと、おれの喋り方のせいかもしれんが真剣味がいまいち伝わってない気がする。思うに他の相談者みたいに辛気臭い感じで下を向いてボソボソと喋るような切実さがないからだろう。小2から尊敬なんかしてないかつての親父らしき何かなんぞ「殺しても罪に問わん」と司法からのお墨付きをもらえば3分で解体する心の準備はいつでもできているのでそこはしょうがない。介護ストレスでどうしようもない感が醸す辛気臭さこそが本物で、理路整然に朗々と喋るおれの相談は大した事ないと思われてるんではなかろうかと感じてしまうのだ。

 


ー以下抜粋ー

次に「将来に悲観」について、このタイプの介護殺人は、事件当時、必ずしも介護が切迫していた状況にあったわけではない。ただ、被介護者の将来、そして先の見えない介護を続ける自らの状況などに絶望した介護者が、時には周囲に迷惑を掛けないよう配慮し、心中、あるいは被介護者の殺害に及ぶという特徴がある。例えば2005年の冬、あるひなびた村で衝撃的な事件が起きた。認知症の妻の介護をしていた夫が自らも体調不良に陥り、将来を悲観し、妻を連れて無理心中したのである。彼らはともに80代、老老介護の夫婦に起きた痛ましい事件であるが、この事件が世間で注目された理由は、夫妻が死亡した場所であった。日記帳に「妻と共に逝く」と書き遺した夫は深夜、近所の火葬場まで行き、妻と手を取り合って炉の中に入り、自ら火をつけたのである。被介護者の妻は、認知症で目が離せない状態にあったが、はたから見て万策尽きて死ぬしかないと思うほどに困窮した病状にあったわけではなく、経済的に困窮していたわけでもなかった。それなのに、夫は誰にも相談することなく、妻とともに死ぬことを選択し、ひっそりと生涯を終えたのである。

ー抜粋終ー

 

 

この話も広義の意味で前述の介護を担う力量や志が不足している事と繋がる。

おれの感情としてはむしろこっちが近いかもしれん。

 

うちの老人とは奴が若い頃も含めておれとは性格も血液型も考え方も気に食わん少年時代のおれにとって超クソ野郎だったが、別に少年時代の怨嗟で殺すだのなんだの言ってるわけではない。むしろそのクソ野郎なりに颯爽とした生き様で(だったらしい)、昭和後期の久留米の学生連中から絶大な支持をされていた歴史があった事が店にあった寄せ書きで確認している。そこに書かれた若者たちの青春の苦悩や旅立ちと別れの物語は今のようなすべてが近い時代と違い、美しく儚い情緒が存在した。そういう空間を提供しえたセンスはやはり認めざるを得ない。

 

ゆえに、そんな実績を作った人間が無様な醜態を晒して糞を食って死ぬであろう末路がおれとって受け入れ難い気持ちの方がでかいのだ。そもそも血の繋がりのある人間をガチで殺したいとか思うわけがないのでそこは誤解してほしくない部分である。だが、そう頭で理解できてるにもかかわらず、殺意のような負の感情が芽生える事が問題であり、そこに関する第三者的な理解度がおれの知る限りでは恐ろしく低いと思う。


ー以下抜粋ー

一方、海外に目を向けると、ここ20年ほどで介護者支援の基盤となる法制度の整備が大きく進んでいる。例えば英国では、介護者支援は単に在宅での介護の継続を目的にした支援のみを行っているわけではなく、介護者法のもと、介護者を要介護者とは違う個人として認め、その社会的役割を確認し、介護者への支援は彼らが介護を原因に社会から孤立しないことを目指すものとしている(三富2000:18)。オーストラリアにおいても連邦としての介護者支援の基盤となる基本法を置き、州ごとの介護者支援の法整備を推進するなど、介護者支援の充実を目指す動きが広がっている。これらの国々では、介護者を独自のニーズを有する個人と認識し、「社会的包摂」を目的に介護者法を基盤に据え、支援に向けた財源を確保している。そして自治体は介護者とサービス提供者に法の内容を告知し、介護者アセスメントを実施し、その結果に基づき適切なサービスの給付を行っている。最近は世帯全体に目を向け、包括的な支援の推進にも努めている。このような取り組みは、この先日本で介護者支援を進める上で大きな指針となり得る。

ー抜粋終ー

 

>>介護者法のもと、介護者を要介護者とは違う個人として認め、その社会的役割を確認し、介護者への支援は彼らが介護を原因に社会から孤立しないことを目指すものとしている

 

・・・

 

さすが「ゆりかごから墓場まで行こうとしたら国が傾いた」先輩なだけある。

 

憚らずに行ってしまえば結局は介護する人間にも物質でも観念的なもん構わんから「純然たる見返り」が欲しいのだ。日本だと「今まで育ててもらった恩が~」って話になりやすいが別に子供が育つのはオヤジの甲斐性だけではない。そんな賞味期限切れの精神論に固執して家族や周囲に理不尽や無茶を強いる事が美談とされるような因習こそ間違ってる

 

率直に言って老害にかかるようなカネなんぞは払いたくない。だが実際のところは払えなくはない。払えなくはないが、周囲や社会通念が醸しだす「肉親なら面倒見てやるのが当然だろ?」的な空気感が今まで説明したような複雑な感情と交錯して行き場のない感情や怒りやら絶望感を増幅しているのだ。こればっかしは当事者にしか理解できん感情なのかもしれない。

 

ただねえ、もし日常的に我が家のジジイの口から「ありがとう」とか「いつもごめんな」的な言葉がおふくろやおれに対して、その都度あったかどうかだけでも今抱える感情はおそらくだいぶ違っただろう。おわかりだろうか、殺人に至るまでのプロセスは相当な複雑さだが問題が生まれる根の部分はすごく単純な話なのだ。みんな言わないだけで、そういう気持ちは誰でも抱いてるはずなのだ。

 

・・・

 

個々の家がやれるかどうかは状況にもよるとは思うが、原理的に考えて合理的な最適解は一つだけだ。それはダークサイドに落ちた被介護者と距離を置くことしかない。ようは、自分と末期状態の人間との空間にある閉鎖的な状況が殺意を生むわけであり、そこを愛とか理性とか倫理観で超えるみたいなクソ以下のファンタジーは全員を不幸にするだけだ。徹底して物理的な距離を置く事が最適解であるのは間違いない。

 

上記で語ったように、公的支援を謳う第三者機関は介護者側の感情や状況がわかったとしてもあえてそこはシカトする訓練を積んでいるんで、介護側の感情的なサポートというのは確実に一番後回しになる。現行システムの最大かつ深刻な欠如なのは明確なのだが、そのあたりに限界線があるんだろう。その限界線がみえた時「これだけ社会が発展していても、痴呆老人と相対手段はまだまだ原始的で片手落ちの状況だ。だがその限界線を感じられた事自体に心理的な脱皮の軌跡があるのだ。